善性
善く生きる、という言葉がある。私にはあまり縁のない言葉だなと思う。そもそも善人とは、善とはなにか。
社会の中で生きていれば、他者と関わりを持つ中で人を助けたり、手伝ったり、ちょっとした相談にのることがある。
これは善行だろうか?私にとっては違う。こうした行為は(情けは人の為ならず的な意味ではなく)文字通り自己のための行為であると思う。
つまり、自分の社会的評価や、他者からの好感を意識しての行動である、と思っている。なるべく人に好かれたいし、価値ある人間だと思われたい。勿論その行為が相手にとって利となることは嬉しく思うのだが、それ自体が目的ではない。
基本的に"善行"をするか否かは、相手から得られる評価や価値、それらに基づく自己肯定と、自分にかかる負荷やその時の心身の状態との天秤で決まっている。
面倒だったらやらないし、余裕がない時もやらない。一見すると自己犠牲に思えるようなことも、その先に見える評価や報恩的な利益との天秤にかけ、それほど重要でない犠牲と思えばこそ払えるというもの。
そもそも私は私のために生きていて、他者はその余剰で助けるものなのだと思っているフシがあり、それでいいとも思っている。
幸か不幸か要領は良い方なので生きることにそこそこ余裕があり、そこで生じた余剰を割いているという感覚があるのでそう思うのかもしれない。
こうした思考のもと行われる行為が、(結果は善く見えるとして)果たして真に善行と呼べるだろうか?ということである。
つまり私はこれを偽善であると思っているのだ。(こうした意味で偽善的であること自体に負の感情はない。)
それならば、善行は"時に自己をなげうってでも、真に相手の為を思って行う"必要があるのではないか?
ちなみに辞書には
ぜん‐こう ‥カウ【善行】
〘名〙 よい行ない。道徳にかなった行ない。善良な行状。ぜんぎょう。〔文明本節用集(室町中)〕
とある。こういうときに道徳という言葉が出てくるのか...!といった感じだが、この言葉の指すところが曖昧である。
自発性や内省にもとづいてよい行いをしているのではなく利益との天秤でしているので善行ではないなぁと思うくらいか。
まぁ、自分に無理のない範囲で人を助けて、それで自分が評価されるのならばそれに越したことはない。言ってしまえばそれだけの話なのだ。その行為に自分の内的な部分が干渉しているわけではないのだから。結論しょうもな。