分水嶺

嶺はただそこに在り、水を見つめる

水辺にて

試験室のドアの向こう、少し離れたところから、ざー、ざらざら、と水がなにかを浚っていく音がする。この無味乾燥な職場に水が流れているはずもない。

ドアを開けてあたりを見渡しながら廊下に出ると、さっきよりクリアに聞こえる。年季の入った掃除機が、リノリウムの床と毛足の短いカーペットを行き来していた。清掃員の丸まった背中は最早その大きな音を気に留めることもなく、力の抜けた動きでゆっくり往復を繰り返す。

部屋に戻ると、掃除機の騒音をドアが濾過して波音に変えている。

実験の準備をしながら想像する。もしドアを開けた先が穏やかな波を湛える海辺なら。渓谷の深い緑をうつす川がそこに現れたら。この制服を脱ぎ去って、ひんやりとした水に身を委ねる。

むしろこの部屋が小さな舟だったらどうだろう。ドアを開けると、自分が大きな川をゆらゆらと揺れながら降っていくのがわかる。水のうねりの中で、為す術なく先へ先へと流されていく。途中で船酔いしてしまうだろう。

そんなことを9時過ぎのぼんやりした頭で考えているうちに、今日も仕事に呑み込まれていく。

過冷却水

仕事の一環で、実験用具を冷却するための水が入ったペットボトルを冷凍庫から出したり、また戻したりする。

そのとき掴んだペットボトルがまだ凍っていないことがあって、たまたまタイミングが合うとそれが自分の手の中ですーっと白く曇って、液体から半個体に姿を変える。

小学生の頃に理科の実験でみた"過冷却現象"と20代の中盤になって再び出会ったわけだが、これに自分はなぜか毎回感動する。というより、それが何か貴重なもののような気がして、過冷却状態の水が失われ、氷になっていくのが勿体無いような気がしてしまう。

ポカリスエットやお茶のペットボトルに、なんの変哲もない水道水が、その膨張に耐えられるよう8割ほど入れられただけのもの。ただ実験に供するため用意されたそれが、まるで自然界のイレギュラーを示すかのように、何かの意思かメッセージを持って、少しずつ姿かたちを変えていくように思える。

透明な水を軽く握ると、それが合図のように細く白い糸が次々と生成され、集合して最後には曇った塊になる。じっくり見ていると、その過程はなかなか美しい。

考えすぎ、変わり者のロマンチシズムだろうか。

毎日のように同じ作業をしているので週に一度くらいはそれと出会うのだが、毎回ちょっとした特別感と、同時に不思議な喪失感を覚える。

かといって、それで何かが変わることもなく、粛々と日々の仕事に戻っていく。自分も普通の大人になったのだな、と思う。でも同時に、そういう小さなことに覚える気持ちを失いたくはないな、ともおもう。

善性

善く生きる、という言葉がある。私にはあまり縁のない言葉だなと思う。そもそも善人とは、善とはなにか。

 

社会の中で生きていれば、他者と関わりを持つ中で人を助けたり、手伝ったり、ちょっとした相談にのることがある。

これは善行だろうか?私にとっては違う。こうした行為は(情けは人の為ならず的な意味ではなく)文字通り自己のための行為であると思う。

つまり、自分の社会的評価や、他者からの好感を意識しての行動である、と思っている。なるべく人に好かれたいし、価値ある人間だと思われたい。勿論その行為が相手にとって利となることは嬉しく思うのだが、それ自体が目的ではない。

 

基本的に"善行"をするか否かは、相手から得られる評価や価値、それらに基づく自己肯定と、自分にかかる負荷やその時の心身の状態との天秤で決まっている。

面倒だったらやらないし、余裕がない時もやらない。一見すると自己犠牲に思えるようなことも、その先に見える評価や報恩的な利益との天秤にかけ、それほど重要でない犠牲と思えばこそ払えるというもの。

そもそも私は私のために生きていて、他者はその余剰で助けるものなのだと思っているフシがあり、それでいいとも思っている。

幸か不幸か要領は良い方なので生きることにそこそこ余裕があり、そこで生じた余剰を割いているという感覚があるのでそう思うのかもしれない。

こうした思考のもと行われる行為が、(結果は善く見えるとして)果たして真に善行と呼べるだろうか?ということである。

つまり私はこれを偽善であると思っているのだ。(こうした意味で偽善的であること自体に負の感情はない。)

それならば、善行は"時に自己をなげうってでも、真に相手の為を思って行う"必要があるのではないか?

ちなみに辞書には

ぜん‐こう ‥カウ【善行】
〘名〙 よい行ない。道徳にかなった行ない。善良な行状。ぜんぎょう。〔文明本節用集(室町中)〕

とある。こういうときに道徳という言葉が出てくるのか...!といった感じだが、この言葉の指すところが曖昧である。

自発性や内省にもとづいてよい行いをしているのではなく利益との天秤でしているので善行ではないなぁと思うくらいか。

 

まぁ、自分に無理のない範囲で人を助けて、それで自分が評価されるのならばそれに越したことはない。言ってしまえばそれだけの話なのだ。その行為に自分の内的な部分が干渉しているわけではないのだから。結論しょうもな。